「なりたい自分」になんかなるな

昨晩はなんだか気分が落ち込んでいて、なんでだろうと今朝考えていたら、昨日読んだ本が原因だったような気がした。

自己啓発本ってわけじゃないんだけど、なにかモノの考え方について書かれた本を読むと、「もっとこうあるべきだ」みたいな、「なりたい自分」を想像してしまう。そして、その容易には埋まらない溝を見つけて、落ち込んでしまう。

これまで、そういうことをけっこう頻繁にやってしまっていたな、と思った。

 

「なりたい自分」像があると、仮になにかできても「でもこれはまだなりたい自分には遠い、もっとがんばらなくては」と焦る。そしてこの「がんばる」というのはイコール「苦しむ」ことだと勘違いする。苦しむために、自分自身に精神的追い込みをかけてしまう。はっきり言って、この追い込みは無意味だ。ただいたずらに自分を傷つけて自尊心をすり減らすだけだ。マジで意味がない。

でも、こういうことをいつからかずーーーっと自分にやっていたようだ。

 

最近はなんもせずぼんやり生きているため、「なりたい自分」みたいな像をあまり持たないようになった。すると、精神的に楽だ。いまの自分に対して自己肯定感が以前よりもててるし、なにかひとつできるたびに素直に自分を褒めれた。

 

「なりたい自分」になるというのは不可能だ、と、朝チャリを漕ぎながら思った。

過去に演劇の舞台に役者として上がったときのことを思い出す。世の俳優さんがどうかは知らないけど、少なくともぼくは、「役になりきる」みたいなことは一度も考えたことがない。どんな役を演じようと、ぼくはぼくだ。

強いて言えば、ぼくが、台本上の台詞や所定の動きを通して、あるいは舞台上で見聞きしたものが反応としてアウトプットされる。ただそれだけだ。

それを他人からみたときに、架空の"役"として映る。基本的にはそういうものだと思ってる。

現実の自分についてもきっとそうで、べつにいまの自分は「自分を演じてる」なんてつもりは普段全くなくて、ただ自分である、というのを他人がみて「あなたはこういう人だね」と思うだけだ。

「なりたい自分」になることは不可能だ。あえて言うなら、なにかを"やる"ことでしか「なりたい自分」に近づくことはない。しかも、「なりたい自分」になれているかは、自分でははっきりわからない。自分の顔を鏡なしには、直接見れないように。

つまり、「なりたい自分」を設定したってしょうがないのだ。"なる"ではなくて"やる"で組み立てないといけない。

また、これは別の話になるけど、経験上、辛いと思いながら"やる"を積み上げてもいい結果だったことはないから、"やりたいことをやる"を積み上げるのがよさそうだ。

 

当たり前のことなのかもしれないけど、今朝はそんなことに気づいた。